さて、意識っていうのはどんなものを指すのかというスタートのところにもういちど目を向けてみる。
ものを考えたり、判断したり、思考するのはたぶん感情であったり知能などと呼ばれる部類に属すると思う。
意識はそういったカテゴリーではなく、もっとシンプルなものなのでは。と考える。
話が飛躍するが、一元論という視点について考えてみる。
たとえば、正しい行い・悪い行いなどや、みんなにとってよいこと・悪いこと、殺人はどうとか戦争がいけないとか、人のために尽くすことは美しいとか。
これらは、いわゆる二元論とよばれるものだね。
白黒や、正邪があるものの捉え方ってことね。
で、一元論はというと、全部そういうものが無しってこと。
いいとか悪いとかって基準や判断はない。
何かあればそれはそういうものとしてそのまま認識するだけ。
何かを決定するとしたとしても、善悪や何かに有益か無益かなどといった基準は存在しない。
あるがままにそのまま。
なるようになっていく。
それを、意識として呼んでいいのかどうかはわからない。
だって、なにも判断を下しているわけではないんだから。
さて、書いていてワケわからんのでこの話は終了。
で、一定量の情報の集合体としての意識だけど、もしそれがさらに一定量を越えたら、意識ではなく意思という呼び方になるということでいいかな。
意思になると、自らの求める方向性が生まれるんではないかなと。
たとえば、一番わかりやすいのが、食物連鎖のループで起きる生産者と分解者と消費者のバランス。
それぞれが生きていくために、お互いの種の数を自分たちで調節していくような現象は、意識というよりも意思というふうに表現した方が適切な気がする。
はい。だいぶ前振りが長くなってきたけど、そろそろ言いたいことに話を向けていこうかなと。
てことで、本題は次回。
2009年5月24日日曜日
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1 件のコメント:
おもしろいわぁ…。
takosuke
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