人間関係で考える見えないもの。
人と接するときに見えないものを考えるというか、配慮するというか、コントロールすることについて考えてみる。
現在、私は人と接するような仕事をしているので、特にその点について神経を使う。
例えば、大げさな話だが、金属バットをメチャメチャに振り回せば、近くにいる人は危なっかしいし、何かの拍子で人に大けがを負わせてしまうことだって大いに考えられる。
また、ヒドい言葉や、汚い言葉、相手を軽蔑したりさげずむ様な言葉を発すれば、その相手はかなりの確率で傷つくし、場合によってはその周りにいてその状況を見たり聞いたりしている人間の何人かは、同じように傷つくことがあるだろう。
で、次に、言葉や態度に出さなかったとしても、そういった心を持っている人がいるとする。
やっぱりおなじように周りの人間を傷つけてしまうのではないかなと。
ただ、このときに前者と違うのは、当人が相手を傷つけたという認識がないってこと。
例えば、バットで人を殴ってしまえば、故意でなければ殴ったときに振り回すのを止めるでしょ。
言葉での暴言も、相手がそれに反応してそれなりの変化を示せば、自分を省みるはず。
でも、何もしてない(ここでいう”なにもしてない”は表面上の話)のであれば、相手の変化に対して自分を省みることをしないのが一般的と思う。
怪我をしているのに殴り続ける。
非常に落ち込んでいるのに罵倒し続ける。
これは結構致命的なダメージを与えてしまうでしょ。
はい、今度はポジティブな角度から。
まず前提条件がある。
「相手が自分のことを嫌いでない。または好きである場合。」
これを前提条件として考える。
スキンシップをとったり、近くにいたりするだけで、幸せな気分になる。
いろいろと相手に関して関心があるということが伝わるような言葉をかける。そうでなくてもただ挨拶だけでも言葉をかける。
それでも、前提条件を満たしていれば、幸せな気分になる。
で、また次に、スキンシップもとらない、言葉もかけない、でも常にそういうとき(スキンシップや言葉をかける)の気持ちを持っているという状況であれば、相手はこちらの存在を認識しただけで幸せな気分になれる。
これもまた、相手が幸せな気分になってもひたすら継続しているから、違う意味で大変な影響になる。
こんなことを考えると、人と接すると言うことはとっても責任が大きいということになってしまう。
その接するときの自分の気持ちとか心の状態が、ということね。
もちろん前提条件となる、相手に好感を持たれているということが必要になってくるけどね。
逆に言えば、好かれないまでも嫌われないことが、相手に対してよい影響を与えるために必要なスキルってことになるかなと。
八方美人って言葉はあまりポジティブな表現には使わないけど、やっぱりはじめは好意を抱いてもらう、安心感を与えるというような人間関係の形成って大切なのでは?と思う。
ほんとは、こういうものをもっと科学的に説明したいんだけどねぇ。
2009年7月15日水曜日
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