2009年6月5日金曜日

見えないもの~11〜

世の中の因果について考えてみる。

今現在目の当たりにしている現象というか事象について、それがどこからそういう結果が導き出されたのかということを考えてみたくなった。

仏教ではよく因果応報などと表現するような話。

科学ももちろん結果をもとに原因を探ることが基本的な視点だけど、科学の場合は、大概“原因物質”とか“原因となったシステム”とかに着眼点を向ける。

で、それじゃぁ何でその原因物質がそこに生み出されたの?なんてことはあまり問わない。

もしそれを問うのであれば、確率論や、さらなる原因物質を追い求める。という作業を繰り返す。

このときに、原因情報とか原因エネルギーみたいな物質となっていないものにまで注目しようとは考えない。

てか、証明できないカテゴリーにはいると、確率か未解明の原因物質が原因として考えられるよ。ということで片づける。

それが別に悪いわけではないけど、どうせなら、さらにその先までつっこんで考えてみたくなる。

日々の生活をして思うのは、自分に与えられるいろいろな事象は、自分がその原因をつくっているという、どこでもよく聞く話に行き着いてしまう。

因果応報とか情けは人のためならずとかいうのもすべて情報というものを思考の範囲に加えると、うまく説明ができてしまう。


よく言われることだが、子どもの世界は大人の社会を映し出しているなんてこと。

その子供たちのまわりの大人の世界が平和で穏やかな情報にあふれていたら、子どもの世界も平和で穏やかな世界になっている。

その逆であれば、そのままの結果が現れる。

怒りがあればそれが、嫌悪があればそれが、差別があればそれが、それぞれ例外なく現れている。

それらは、自分たちがそれに気づいて学ぶためなのか、ただ単に物質と情報との必然的なコネクティブな関係によるものなのか、わからない。

ただ一つ言えるのは、それをしっているかそうでないかで解決策を講じる術が180°近く変わってくる。

現代医療の多くが対処療法で、表面化している病状を抑える手段に力を注ぐように、現状に対しての対処療法をするのか?

予防療法や東洋医学のように、原因を突き止め、それを改善し、本人の自然治癒力を使って回復するのを待つ。というように、どこに原因があるのか、なにを自分が学ぶべきなのかを知り、自分の情報を変更というか改訂することによって、自然に改善していくのを見ていくという方法。


そこにある最大の違い?

たぶん表面的なこととしては、失敗ができるかどうか?というか、失敗することに抵抗をなくせるかどうか?

なんてことが必要な気がする。

一見すると、なにも解決策を講じていないように見えて、時間が経っているだけのように見えるその間にも、自然治癒力によって治癒しているということを受け入れられるか。というよりも、その間にはまだ症状が改善していないから問題が多々生じるけど、解決の方向に向かっていることを確信し、待てるか?みたいな。

例えば、そこで不安や疑心や焦燥感を持ってしまえば、まさに本末転倒なわけで。

22150009




あ、わかったし。

まだまだ未熟だ。でも学習した。もう解決v

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